セエデク民族 シヤツ・ナブ ☆新本

Category : 在日外国人・朝鮮半島・中国・台湾・アジア


☆古本ではなく新本です☆

セエデク民族 
シヤツ・ナブ
戴佩如・古川ちかし 編集 
台湾東亜歴史資源交流協会 発行
2015年1刷
142ページ


下記、台湾東亜歴史資源交流協会のブログより引用

昨年(2015年)11月、シヤツ・ナブ牧師が日文で書き下ろした『セエデク民族』の編集がついに完成し、EAPHETから出版された。中文版も同時に出版した。脱稿から3年ちょっと経ってしまった。
 2012年8月に、それまで何度かシヤツ・ナブ牧師にお願いしていた「セデックの歴史」の原稿をもらってから、それを中文に翻訳し、一般の読者にもわかってもらえるよう地図などを付し、出版にいたるまで、想像以上の時間が必要になりました。

 シヤツ・ナブさんは、セエデク・タグダヤのカッツク社(社=部落)に生まれましたが、幼少のとき霧社事件が起きました。カッツク社の人たちは蜂起に(部落としては)参加しませんでしたが、中には個人で参加した人もいたようです。事件後に、カッツク社は隣のタカナン社とともに濁水渓(川)まで降ろされました。部落ごと、日本警察の管理しやすい場所に移動させられたわけです。ところが、川べりはマラリヤの蚊が多く、部落から死者がたくさん出たため、川の反対側のちょっと高いところに位置していたセデック・タグダヤ最大の部落で蜂起に参加しなかったパーラン社の一部に組み込まれました。そこにしばらくいた後、今度は濁水渓にダムを建設するのに伴って、パーラン社全体が、もっと低い場所(埔里から山ひとつ越えたところ)に強制的に移動させられました。中原部落という部落です。1939年ころのことです。
 父アブさんは、一家が(部落が)埔里に移動された後、人のいなくなったパーラン社に杉の木を植えるという苦役に駆り出され、何度も杉の苗木を背負って埔里と霧社とを往復させられたといいます。(パーラン社があった場所は「電源保護区」に指定され、人家を一掃して杉の林にした。)母親のラベさんはどちらかといえば日本贔屓の人だったようで、シヤツさんの兄のロシが教育所修了後に尋常小学校に入学が許可され、日本警察に就職したときには大喜びだったそうです。ロシが警察官として近隣の部落の派出所に勤め、教育所の教師も勤めるようになると鼻高々だったとも聞きます。あるとき、日本警察に対して反乱を起こそうとしていた者をラベがロシに密告し、ロシが下手人を捕らえて褒美をもらったこともあったそうです。アブさんは、そんな妻とは意見が合わなかった。日本警察が、ロシの弟だということでシヤツも上の学校に上げないかと言って来たとき、アブさんは言下にこれを断った。息子を二人日本に取られてしまうのは、ぜったいにいやだったようです。
 そんなわけでシヤツさんは、父アブの農地を継いでよく働きました。兄のロシのように学問を身につけ、日本人と肩を並べて仕事をするのを羨ましがったこともあったといいます。日本が去って、ロシが議員になったとき、シヤツさんも中原部落の農会の代表となります。隣の部落(川中島)のロボ・ピホさんと結婚しました。当時、台湾の山の中にキリスト教が入ってきて、ロボさんは真っ先に入信した。シヤツさんは、しかし、部落代表の仕事もあって、政治的なかけひき、繰り返される飲み会、つきあいに追われ、そんな妻の聖書のページをやぶいてタバコを巻くというような「蛮行」を繰り返していたといいます。

ゲラ刷りを校正中、左からシヤツ牧師、ロボ・ピホ師母、戴佩如
 シヤツさんが教会に顔を出すようになったのは、代表の活動で体を壊したときでした。ロボさんに連れられるようにして教会に顔を出すようになった。その後川中島の教会で、献身的に布教するアメリカ人の牧師に出会い、入信したのだそうです。それから伝道師になり、牧師になる勉強を始め、1970年代に日本(鶴川農村伝道神学校)に留学、台湾に戻って牧師職に就いた。
 シヤツさんが牧師職に就いてから、折に触れて気になることが起こりました。それは、同胞でありながら、部落の間に、普段は見えないけれど何かあると湧き上がってくる確執のようなものでした。シヤツ牧師は書いています。

 私たち三つの系をもつセデックが一致すべきなのに互いにあらそい、仲を悪くしているのを知った日本は、この弱点を利用して私たち民族に殺し合いをさせ、仇という憎しみを心の中に植え付けた。このことは忘れられない罪となって、私たちはこの罪を背負い続けたようだ。
 ある一人の娘が私に「牧師さん、私が霧社事件記念活動に参加して家に帰ると、母に叱られたんです。なぜそんなものに参加するのか、と」と言うのです。昔のことなのに今でもまだ恨みがあるのかと、私は驚いた。
 前の陳総統が霧社に上がられたとき一人のトウダ系の青年がみんなの前で陳総統に「霧社事件記念碑に行くな、彼らは私たちの敵だ」と言った。これを聞いたとき、私は心の中で悲しい思いをした。(「セエデク民族」本文より)

 和解のためには何が必要なのか、シヤツ牧師はいろいろやってみた。それは試行錯誤の連続だった。和解はもう何度もやってきた、いまさら必要ない…そういう声が強かった。パーラン社の人間が何を言うか、味方蕃のくせに。そんな声も聞こえてきた。「私(シヤツ)が何か言うと怒る人がいるから」と、発言を控えようとしたこともありました。本書は、そんなシヤツ牧師の最後の試行錯誤のひとつなのだろうと思います。私にはどうにもできなかったかもしれないけれど、歴史は残しておかなければいけない…そんな思いなのかもしれないと思います。
 
 編集の過程で困ったことが起きました。シヤツ牧師はタグダヤの人ですが、蜂起に加わらなかったパーラン社の人です。蜂起した部落の人、そして敵対してしまったトーダの人、トルクの人にも意見を書いてもらって、この本に載せたいという牧師の希望だったのですが、書いてくれる人を探すことができませんでした。候補に挙がった名前の中には牧師さんもいたし、長老たちも、郷土史研究家もいました。ほとんど、直接、間接に執筆を断られました。この交渉に一年以上かかりました。快諾してくれたのは、蜂起部落出身のDakis Pawanさんと、ご自身はトルクの方で現在はトーダの部落の牧師をしているPeyto Nokanさんの二人だけでした。お二人は、シヤツ牧師の文章を丹念に読んでくれた上で一筆寄せてくれました。
 編集作業はまず中文原稿作成から始まりましたが、苦労したのは人名、地名のローマ字表記です。正書法が確立しているとは言えない状態である上に、トーダ、トグダヤ、トルクで綴りが異なったり、時代によっても若干異なったりすることがだんだん分かってきました。(結果的に断られたのですが、執筆を依頼したある人からは)綴りがめちゃくちゃだからどうにかした方がいい、というアドバイスをもらったこともあります。シヤツ牧師に確認しながら、基本的にはタグダヤ語の綴りを優先しましたが、一般的に使われているトーダ語の綴りを使用した語も若干ですがありました。この作業には東海大学日本語文化系の「山プロジェクト」の力も借りました。しかし、それでも最後まで自信のもてない語があったことも事実です。
 最後の一年は、戴佩如さんと私とで、中文、日文、それぞれの校正を行い、下山誠さんや葉綉清さんからお借りした写真の校正、そして本全体の配版を行いました。戴佩如さんは、私の「出版までの経緯」の中文訳、ペト牧師、ダキス氏の感想の日文訳と、たくさんの翻訳と校正を担当しました。表紙デザインの絵の部分は私が担当しましたが、文の部分は戴佩如さんが書き下ろしました。非常に多くの方の協力のもとに、本ができあがりました。どうかご一読くださるよう、お願いします。(古川ちかし)

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